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空の検索で1396件の結果が見つかりました。

  • 「三十円のタイムマシン。刹那に開閉する『無価値』という名の贅沢」

    < BACK TO PORTFOLIO 【作品データ】 作品名: アメージング・ガチャ・スコープ(Amazing Gacha-Scope) 制作年: 2024年 素材: ベニヤ合板(レーザーカット加工)、サーボモーター、電子制御基板、液晶ディスプレイ、硬貨選別機、鉄(台座) サイズ: W500 × D600 × H1500 mm(台座含む) 【コンセプト】 昭和の駄菓子屋で味わった「何が出るかわからない」ガチャ体験と、観光地のコイン望遠鏡が持つ「強制的な終了」の美学を融合させたインタラクティブ・アート。現代の失敗を許さない高額な娯楽へのアンチテーゼとして、わずか30円で提供されるのは「意味不明な1分間」という無駄の極致である。エジソンのキネトスコープを現代のユーモアで再定義し、大人たちの記憶の底にある「純粋な好奇心」を揺さぶり起こす装置である。 【 演出・機構ドキュメンテーション映像 】 19世紀のエジソンへのオマージュから始まる、本作の核たる「音声演出」と「物理的閉鎖ギミック」の記録。コイン投入時の扇情的なコール、そして観光地の望遠鏡を彷彿とさせる無情なシャッターの閉塞。時間軸を伴うインタラクティブな体験が、いかにして観客の「意味への執着」を裏切るかを可視化する。 【ステートメント】 マジシャンとスリは、どちらも相手の注意を逸らし、懐に潜り込む技術を持ちます。しかし、その決定的な違いは「実被害を伴う損失」か「夢のあるファンタジー」かという点にあります。私の制作の根底には、常にこの「実被害のない悪戯」への憧憬があります。 本作「アメージング・ガチャ・スコープ」は、3枚の10円玉という、現代では価値を失いかけた小銭をトリガーに、観客を「記憶の迷宮」へと誘います。幼少期、20円を握りしめて対峙したガチャガチャの、あの「ゴミのような景品」の中に時折混じる「本物のときめき」。そして高尾山の山頂で、100円の対価として数分間だけ許された景色が、シャッターの音と共に無情に遮断される瞬間の滑稽さ。 技術的には、レーザーカットによる木製の温かみある筐体に、現代のサーボ制御を組み込み、100本以上の映像をランダムに供給する「デジタル・キネトスコープ」としての機構を構築しました。しかし、本質的な仕掛けは機構そのものではなく、覗き窓の向こう側に広がる、バカバカしくも美しい「意味からの解放」にあります。シャッターが閉じた瞬間、観客の顔に浮かぶのは、落胆ではなく「笑い」であってほしい。効率と正解を求める現代社会において、この装置は「30円分の自由な失敗」を肯定するための処方箋なのです。 【キュレーターズ・ノート】 本作は、現代美術における「祝祭性」と「技術の再解釈」を鋭く突いた秀作である。 第一に、作品全体を貫く祝祭的なエンターテインメント性が挙げられる。単なる映像装置に留まらず、コイン投入時の音声演出や「行列」を誘発する覗き窓の構造は、日常空間を瞬時に非日常的な見世物小屋へと変貌させる力を持つ 。 第二に、枯れた技術と素材の再定義である。ベニヤ板やサーボモーターといった、決して最新とは言えない素材や技術を「水平思考」によって組み合わせることで、高機能なVRデバイスには真似できない、身体性を伴う驚きを創出している 。 第三に、視覚的なレトリックとユーモアだ。観光地望遠鏡の「閉じる」という物理的な制約を、物語を断ち切る「知的裏切り」として利用しており、見る者と装置の間に遊戯的な対話を生じさせている 。これらは、観る者の予測を軽やかに裏切り、理屈抜きの驚きを与える「視覚の魔術」の現代的応用と言えるだろう。 < BACK TO PORTFOLIO

  • 「静謐なるマホガニーの檻。30円で『覗く側』を『見世物』へと堕落させる、祝祭の残滓」

    < BACK TO PORTFOLIO 作品タイトル:Amazing Gacha-Scope / アメージングガチャスコープ 制作年:2023年 素材:木材(マホガニー・オイルステイン仕上げ)、Raspberry Pi、ESP32、コインメック、液晶モニター、無線通信システム 【コンセプト】 洗練されたマホガニーの筐体と、「アメージング」という甘美な呼び込み。30円を投じて覗き穴に執着する観客は、その瞬間、路上において「異様な不審者」という公共の展示物へと変貌する。本作は、対価を払って自ら「変な人」を演じさせられる観客の滑稽さを描き出す。都市の隙間に現れる見世物小屋の熱狂と、それが去った後の空虚さを内包した、視線の反転を誘発する装置である。 【 演出・機構ドキュメンテーション映像 】 19世紀のエジソンへのオマージュから始まる、本作の核たる「音声演出」と「物理的閉鎖ギミック」の記録。コイン投入時の扇情的なコール、そして観光地の望遠鏡を彷彿とさせる無情なシャッターの閉塞。時間軸を伴うインタラクティブな体験が、いかにして観客の「意味への執着」を裏切るかを可視化する。 【ステートメント】 「能あるバカは、バカ隠す」。本作のミニマルな佇まいは、その格言を体現している。無印良品のような端正なデザイン、天井まで伸びるマホガニーの小割り材。この「正しさ」を纏った装置は、その実、中身のないバカバカしさを隠蔽するための極上の擬態である。 サーカスのアナウンスに誘われ、コインを投じ、期待に胸を膨らませて覗き穴に顔を寄せる。そのとき、マジシャンとしての私は、観客から30円と引き換えに「日常の尊厳」を鮮やかに盗み取る。スリが財布を盗むのが実害なら、私は観客の「まともな社会性」を数分間だけ奪い、ファンタジーへと置換するのだ。 真のゴールは、覗き込むゲストの背後に広がる。道行く人々が「必死に何かを覗き込む異様な姿」を目撃したとき、ミイラ取りはミイラになり、観察者は観察対象へと反転する。 かつて空き地に現れ、一夜にして消えた見世物小屋のような、あの「見てはいけないものを見た」後の救いようのない空虚感。それを私は、30円の映像ガチャという「現代の駄菓子」に込めて提供する。 【キュレーターズ・ノート】 本作には、現代アートを日常の地平へと引きずり下ろす3つの文脈が重層的に組み込まれている。 第一に、「祝祭的エンターテインメント」の文脈である。軽快なジャズと煽情的なアナウンスは、観客の知性を一時的に麻痺させ、日常の壁を破壊して非日常へと誘い込む。この圧倒的な「魅せる力」は、高尚な芸術への皮肉としても機能している。 第二に、「技術と素材の再定義」。賃貸物件という制約(壁を穿てない)を逆手に取り、ESP32とRaspberry Piによる無線通信を介して、室外の課金と室内の再生を同期させる手法は、既存技術の「水平思考」的な転換である。マホガニーという権威的な素材が「バカバカしさ」を隠すための装置に転じている点も、素材の価値の再定義と言える。 第三に、「視覚的レトリックとユーモア」。看板による過大広告と、実際の映像の落差。その「苦笑い」こそが、作者と観客の対話の結実である。構造的な裏切りを用いたこの知的遊戯は、現代社会における「価値の不確かさ」を、軽妙なユーモアを持って告発している。 < BACK TO PORTFOLIO

  • 「大理石の上に鎮座する『二枚舌』。権威と軽薄が交錯する現代の守護獣」

    < BACK TO PORTFOLIO 作品タイトル VOX POPULI / VOX DEI: 神殿の二枚舌(グッティ&バッティ) VOX POPULI / VOX DEI: The Double-Tongued Guardians (GOOD_T & BAT_T) 制作年 / 素材 / サイズ 制作: 1990年代後半(初演) - 現在 本大理石調カッティングシート 素材:30年前のヴィンテージ・パペット、マイクロフォン・シルエット、可変式テレスコピック・スタンド、コンプレッサー、エアシリンダ、遠隔監視・通信システム サイズ:床設置サイズ 550x550 高さ 1800 可変(台座含め、成人男性の視線に干渉する高さ〜最長2500mm程度まで伸縮) コンセプト 本作は、神社の狛犬の形式を借りた「対話型ライブテイメント・インスタレーション」である。本来「受け身」の装置であるマイクが意志を持ち、権威の象徴(大理石)に鎮座する。善悪や本音・建前を司る2体の巨大な「口」は、リスクマネジメントを放棄した言葉を放ち、観客の社会的仮面を剥ぎ取る。コミュニケーションの最小単位である「口」を通じ、現代社会の虚飾と人間性の真理を炙り出す試みである。 ステートメント 「口は災いのもと」という格言を、「笑いのもと」へと反転させる本作は、言葉の持つ破壊力と創造性の境界線を模索する。 着想の源泉は、政治の場における「二枚舌」への違和感にある。不変・重厚の象徴である大理石を台座に据えながら、その上に載るのは軽薄で饒舌な「口」という、極めて不均衡な構成をとる。これは、石井竜也氏が提唱する「観客を驚かせ、楽しませる演出」を基盤としながら 、その裏側で権威の空虚さを突くアイロニーとして機能している。 本作にはあえて境界線(スタンション)を設けていない。これは「口」を物体ではなく「人格」として扱うための必然であり、観客との身体的・心理的距離を無効化する。福田繁雄氏的な「視覚の裏切り」 を孕んだ「目は無いが、見えている」という特異な状況下で、観客は自らの内面を露呈させる。ある者は攻撃的に、ある者は親愛を持ってこの「口」と対峙するが、その反応こそが観客自身の鏡像である。 9時間に及ぶノンストップの対話パフォーマンスは、もはや単なる演劇ではなく、そこに介在する人間同士の「縁」を強制的に結びつける社会的彫刻である。2ショット写真という物理的な証跡は、虚構と現実が交錯した瞬間を固定する「聖遺物」となる。 キュレーターズ・ノート 本作の核心は、既存の技術やマテリアルを全く異なる文脈へと転用する「水平的転回」の批評的な実践にある。30年前のパペットやヴィンテージ・マイクという、歴史の中で「枯れた」アナログな道具を現代の視座で再編。そこに「大理石」という政治的・静的な権威の象徴を衝突させることで、重厚さと軽薄さのアイロニカルな共存を際立たせている。 また、鑑賞者の感覚を一瞬で奪う祝祭的なインパクトを入り口としながらも、極限まで削ぎ落とされた構成によって、観客を単なる「観察者」から、自らの内面を「露呈させられる当事者」へと反転させる装置として機能している。 本来、受動的に音を拾う装置に過ぎないマイクを、能動的な意志を発する器官へと転換したこの試みは、現代の監視社会やSNSにおける非対称なコミュニケーションに対する鋭い皮肉を含んでいる。エンターテインメントの表皮を纏いながら、その深層で人間性の本質を鋭く問う、極めて硬派なインスタレーションと言える。 【Video Archive: Breaking News from 1990s】 1990年代、都市のストリートを震撼させた『対話型彫刻』の実録アーカイブ(YouTube映像)。当時の荒い画質と、群衆がクチの毒舌に巻き込まれ、リアルな笑顔と困惑を剥き出しにしていく熱量をそのまま記録した、貴重な歴史的ドキュメントである。 1990年後半 開発当時 < BACK TO PORTFOLIO

  • 某展覧会への出費について

    2026年、ポップアートの世界にも顔を出してみようと 画策してる毎日です。 インスタで、とあるポストが目に留まる。 (日本の有名な)美術館であなたの作品を展示しませんか? …って。 今回は、「ガチャスコ」を展示しようと思い、 肩書が全くない私は、なんでも経験とばかりに 応募要項も、チャチャッと書いて、 よく読まずに応募した。 数日後、入選のお知らせ。 いえーい! いろいろ資料を読むと、 参加費がかかる。とのこと。 おい、これ、そこそこの値段だで? 東京の一等地の月極駐車場台くらいだで? 会期は10日間で。 これ、商魂ないデザフェスみたいじゃん!かよ。 そもそもこの企画展覧会、 どんな客層が来るのかも分からないし、リサーチもしてない。 ノリと勢いで申し込んだ。 キャンセルは、入選通知より8日間。それ以降はキャンセル料が発生する。とのこと。 へ? 静寂の極みの美術館で、 こんな俗っぽいガチャスコのミスマッチ感を考えると、 ワクワクが止まらん、止まらん、かっぱえびせん。 これぞポップ・アート!(自称 そんなとき、ふと疑問。 ゲストが¥30入れる、徴収するって、いいのかしら? でもね、¥30入れてバカ映像を見せることが、この作品の狙いじゃないのよ。 ¥30は、作品のトリガーであり、 硬貨を入れたゲスト自身が、箱を覗いて滑稽な姿になることで、その作品の一部になり、 ソレを見る観客がいて、始めて作品が完成する。 …という質問を、事務局に投げた。 回答次第では、出展辞退も視野に入れる。 ¥30で、出展料を回収するには、2000回以上。 10日間、開館閉館の約7時間。 映像1本、約1分。 休み無く上演して、1日、420回。10日間で4200回。 無茶だなwww もし、オールokになったら、 ちょっと皮肉な仕掛けを新たに作ろうとまた画策してる。 これはこれで、楽しみだわ。 果たして、出展の運命はいかに?! 追伸。 次回のデザフェス2026に応募しました。 今月末には抽選結果がくるみたい。 これには、GOOD T SHOWを出展するつもり。

  • にっくきGについての疑問

    どうでもいい話ですけどね、 そんなどうでもいい話にも、なぜ?ってことがあるという話。 これまで生きてきて、何匹とGの死骸を見てきた。 そこでひとつ、不思議に思った。 なぜ、仰向けにひっくり返ってるのか。 今まで、正体のままの死骸を見たことがない。 踏まれたとか、物理的、人為的なことは除いて 自然死、殺虫剤などは、十中八九、仰向け。 そうではないかい? 動けずに、そのまま眠るように正体の死骸を見たことがない。 我慢ならず、aiに聞いてみた。 すると、いつもながら明快な回答。 以下の3点が関係するという。 ・身体の構造 ・死に至る際の状態** ・人間の住環境 1. 神経の異常と脚の痙攣(けいれん) 最も大きな理由として、死ぬ直前の状態にある。 殺虫剤は神経系を破壊し、神経が異常をきたすと、 6本の脚の筋肉がコントロールできなくなり、激しい痙攣を起こす。 このバタバタとした無秩序な動きによってバランスを崩し、自らひっくり返る 寿命や餓死などによる老衰の場合でも、同様に筋力が低下して脚の踏ん張りが効かなくなる。 2. 体の重心 背中側に厚みがあり、背中が重く、脚が細くて軽い「トップヘビー」な構造。 加えて背中側は丸みを帯びているため、脚の力が抜け少しでもバランスを崩すと、重力に従って自然と重い背中側が下になりやすい。 3. 起き上がれない「人間の住環境」 森や土の上であれば、万が一ひっくり返っても、周囲の小石や落ち葉、木の枝などに脚を引っ掛けて起き上がることができる。 しかし、人間の家の中にあるフローリングやタイルなどは平らで引っ掛かりのないツルツルした素材。 一度仰向けになってしまうと、脚を引っ掛ける場所がないため、そのままバタバタともがき、体力を消耗して絶命する。 これらの「起き上がれない条件」が完璧に揃ってしまうため、ほぼ100%仰向けになっている。 ↑引用、ここまで。 なんとも、見てきたかのような回答。 実に私の欲求を満たしてくれる。 これでまた今日もよく寝れそう。 Gには中性洗剤、 不意な蜂には、スコッチのスプレーのり77 がよく効く。 いつも、ふと、こんな疑問が浮かぶ わたくし、たかお晃市です。

  • 垂直の舞台を舞う「金の重力」。剥き出しの身体性を呼び覚ます、デジタル制御の祭壇

    < BACK TO PORTFOLIO 【作品データ】 作品タイトル: バランス・アンド・トラップ / BALANCE AND TRAP 制作年: 2024年 素材: コンパネ、2x4材、ロープ、滑車、PIC、メダルホッパー、コインメック、モーター、DFPLAYER、アルミフラットバー サイズ: 筐体:900x1800mm / コントロールユニット:400x400x500mm 【コンセプト】 「大きく作ることで、人は圧倒される」。1.8メートルもの巨躯を持つ本作は、指先だけで完結する現代の遊戯性への挑戦状である。プレイヤーはロープを介し、重力と対話しながらボールを導く。倍々ゲームという欲望の罠を潜り抜けた先にあるのは、単なるメダルの払い出しではない。利便性と引き換えに忘却された「身体的な感覚」と、失敗から最適解を導き出すという、人間が本来持つ根源的な学習体験の再獲得である。 【ステートメント】 現代のゲーム体験は、スクリーン上の記号を指先でなぞるだけの、極めて抽象的な行為に収束しつつある。かつて10円玉を弾く指の加減や、レバーを倒す絶妙な力加減に一喜一憂したあの「身体的な手応え」はどこへ消えたのか。 本作『バランス・アンド・トラップ』において、プレイヤーは1メートルのバーを操るため、腕だけでなく身体全体を前後に動かすことを強要される。それは、単なる入力作業ではなく、物理法則との泥臭い交渉である。 私はマジシャンとして、常に観客の「記憶のトリガー」を探っている。スリが気づかぬうちに財布を奪うなら、マジシャンは気づかぬうちに「驚きというファンタジー」を植え付ける。この作品もまた、一つのマジックである。ホームセンターに並ぶありふれた素材で組み上げられた「手作り感」という意図的な油断。その裏側で、中古のメダルホッパーとPIC制御、そして煽り立てるBGMが、プレイヤーの射幸心を巧妙にハックする。 「遊びたい」という欲望そのものが最大のトラップ(罠)であり、その罠に足を踏み入れた瞬間、プレイヤーは自身の身体能力の限界と向き合うことになる。一回の失敗で去るか、身体を動かす「気付き」を得て再挑戦するか。このデバイスは、現代人が失いかけた「手応え」を計測する、一種の身体的リトマス試験紙なのだ。 【キュレーターズ・ノート】 本作は、現代社会における「遊戯」の定義を再構築する三つの重要な文脈を内包している。 第一に、**「祝祭的エンターテインメント」**としての強度である。大人の身長をも凌駕するスケール感は、単なる視覚的インパクトを超え、その場に居合わせた傍観者を「観客」へと変貌させる。成功と失敗が公共化されることで生まれる応援やコミュニケーションは、日常の壁を破壊する祝祭性を帯びている。 第二に、「技術と素材の再定義」。汎用的な建築資材という「既存の技術」に、デジタルな制御システムを水平思考的に組み合わせることで、低コストでありながら高度な心理戦を実現している。これは、最新技術の誇示ではなく、使い古された文脈をいかに鮮やかに転換するかという、知的アプローチの賜物である。 第三に、**「視覚的レトリックとユーモア」**だ。一見するとノスタルジックなゲーム機でありながら、その実、プレイヤーを「身体的な学習」へと誘い出す教育的装置として機能している。この「遊びに見せかけた、身体性の覚醒」という構造的な裏切りに、たかお晃氏特有の知的で遊戯的な対話の姿勢が見て取れる。 < BACK TO PORTFOLIO

  • 接続の放棄、あるいは不可能性の受容。断絶された系譜から滲み出す「嘘」の真実

    < BACK TO PORTFOLIO 【作品データ】 作品タイトル:無限水道 / Infinite Source 制作年:1994-1995年頃(2023年再構成) 素材:異国の廃材、バルブ、バケツ、電球、ニッパー、点滅回路、水 サイズ:350x250x800 台座込み 【コンセプト】 30年前、20代前半の作家が「視覚の不可能性」に挑んだ原点回帰的な一作。異国の焼失した城の廃材で組まれたという偽史(フィクション)を纏い、供給源を断たれたバルブから実存する水を溢れさせる。これは、論理的な接続を拒絶し、観客の脳内にのみ「配管」を幻視させる心理的装置である。福田繁雄的レトリックを物質的な危うさへと転換し、科学(水質の一致)という嘘で観客を煙に巻く、知的な遊戯を提示する。 【ステートメント】 私は22歳の頃、ある巨匠の「視覚の裏切り」に強く惹かれていました。二次元でしか成立しないはずの「不可能性」を、三次元の、それも生々しい廃材や水を使って構築できないか。その問いへの答えが、この『無限水道』です。 私の哲学は「スリとマジシャンの違い」にあります。どちらも注意を逸らす技術ですが、私は実被害のない「心地よいファンタジー」を届けたい。この作品では、バルブに水管が繋がっていないという「不可能な現実」を提示しつつ、周囲にはニッパーで切断された電線や点滅する電球といった「剥き出しの危機感」を配置しました。 さらに、私はそこに「物語」というスパイスを加えます。「異国の城の廃材であり、水質も現地と同じである」という嘘のディテール。観客の記憶のトリガーを引き、目に見えない繋がりを信じ込ませる。それはマジシャンである私が、先人から受け継いだ「視覚の魔術」に、私なりの「毒のある物語」を配合して作り上げた、30年越しの確信犯的な悪戯なのです。 【キュレーターズ・ノート】 本作品は、以下の3つの美術史的文脈が、作家独自の感性によって高度に結実している。 祝祭的エンターテインメントの昇華 「水が湧く」という原始的な驚きを、祝祭的なプレゼンテーションとして提示。日常の平穏を脅かすような演出によって、観客を強制的に非日常の体験へと引き摺り込んでいる。 技術と素材の再定義 本来は「導管」として機能するはずのバルブを、独立した「噴出孔」として再定義している。ありふれた工業製品を、水平思考的なアプローチによって、物語を運搬する象徴的なメディアへと転換させている。 視覚的レトリックとユーモア 20世紀の視覚芸術が追求した「だまし絵」的な構造を、インスタレーションとして物理空間に展開している。 視覚的な矛盾によって論理を破壊しつつ、それをユーモアとして着地させる手腕は、知的な対話を重んじる遊戯的芸術の系譜に連なるものである。 < BACK TO PORTFOLIO

  • 虹色の侵略者と30円の防衛線。光の弾幕が暴く「欲」のプリズム

    < BACK TO PORTFOLIO 【作品データ】 作品タイトル:RGB Alien / RGBエイリアン 制作年:2025年 素材:RGB LED(WS2812B), Arduino, 筐体, コインメック, メダルホッパー, 音響ユニット, オリジナルイラスト サイズ:本体筐体 550x280x750 LEDストリップ 15x15x3000 【コンセプト】 台湾のエンジニアDavidHuangLabによるミニマルなコードに、昭和の「10円ゲーム」が持っていた熱狂的な祝祭性を憑依させた体験型作品。3つのボタンで色を合わせる単純明快なルールは、報酬とリスクが交差する瞬間、高度な心理戦へと変貌する。本作は、デジタルな光の遊戯を「コインの重み」という物理的体験へと引き戻し、現代社会に失われつつある剥き出しの射幸心とノスタルジーを同時に撃ち抜く試みである。 【ステートメント】 私は「技術」を「魔法(エンターテインメント)」で包む。 本作は、TIKTOKで見かけたDavidHuangLab氏の革新的なゲームコードに心酔し、私自身の「地球防衛軍・軍曹」としての肉声と、10円ゲームへの原体験をデコレーションすることで誕生した。 かつて駄菓子屋の軒先で感じた、あの硬貨一枚に賭ける焦燥と高揚。それを現代の子供たちに、そしてかつての子供たちに再体験させるためのトリガーが、この「コインメック(投入機)」である。無料のアプリでは決して味わえない、硬貨を投入した瞬間に始まる「責任感」と、ボス戦でメダルを勝ち取った際の「優越感」。それはマジシャンが観客の心理を鮮やかに盗み取るように、プレイヤーの感情を精密にデザインするプロセスでもある。 あえて「エイリアン」という、誰もが即座に理解できるポップなアイコンを選んだのは、エンターテインメントの門戸を最大限に広げるためだ。しかし、その親しみやすさの裏側には、投入枚数によって跳ね上がる難易度という「ハイリスク・ハイリターンの縮図」が潜んでいる。クリア不可解なほどの超高速弾幕を前にしたとき、観客は単なるプレイヤーから、運命と対峙する表現者へと変貌するのだ。 【キュレーターズ・ノート】 本作において、たかお晃市は三つの美術史的文脈を鮮やかに横断している。 第一に、**「祝祭的エンターテインメント」**の確立である。本来、画面内で完結するデジタルゲームを、作家自らの「声」と肉厚な筐体演出によって拡張し、日常の空間を瞬時に非日常の戦場へと塗り替える圧倒的な「魅せる力」がここにはある。 第二に、**「技術と素材の再定義」**だ。既存の汎用マイコン技術(Arduino)やLEDストリップという、それ自体では無機質な素材を、昭和のゲーム文化という文脈に接続し、別の価値へと転換する「水平思考」的アプローチが光る。 第三に、「視覚的レトリックとユーモア」。RGBの三原色という理知的な構造を、怒り狂うエイリアンの表情や「軍曹」の煽りという擬人化されたユーモアで包み込む。この視覚的な裏切りと知的遊戯は、観客との間に「真剣な遊び」という対話を成立させている。 ボツのゴブリン イメージ < BACK TO PORTFOLIO

  • 永久に純白を汚し続ける、演算された情動。「対話」を喪失した現世に放たれる、AIによる愛の定型文(ルーチン)

    < BACK TO PORTFOLIO 展示室の静寂の中に、1800mmの間隔を空けて向き合う男女の石膏像。 「絶望的なまでの距離感」全景カット。 【作品データ】 作品タイトル: 愛囁 / AI-SASA 制作年: 2024年 素材: 石膏像、Raspberry Pi、サーマルプリンター、Wi-Fi、生成AI、木製台座、ゴミ箱 サイズ: H1800 × W2500 × D600 mm(設置レイアウトに準ずる) 石膏像の口から、白い感熱紙が出てる。 古典彫刻の肌質と、安価なレシート用紙 【コンセプト】 現代において「対話」はコストとなり、傷つくことを恐れる人々はパーソナルな殻に閉じこもる。本作は、古典的造形美の象徴である男女の石膏像が、AIによって生成された「愛の囁き」をWi-Fi経由でリレーし、サーマル紙として排出し続けるインスタレーションである。人間が放棄し始めた熱量の高いコミュニケーションを、機械が無機質な石膏の口から永遠に垂れ流すという、滑稽で皮肉なディストピアを提示する。 【ステートメント】 本作の構造は、祈りの言葉を可視化した前作『ハレルヤ』の機構を継承している。1800mmの距離を隔てて対峙する男女の石膏像は、独立したマイクロコンピュータによって接続され、リアルタイムで互いのセリフを生成・応答し続ける。 特筆すべきは、その「バカバカしさ」の演出である。恋愛を「面倒」と切り捨てる現代の風潮に対し、機械たちは一切の躊躇なく、熱烈で、時に支離滅裂な愛を囁き合う。口から吐き出される感熱紙は、二人の閉じた世界が生み出した「排泄物」であり、そのまま足元のゴミ箱へと捨てられる。 ゲストがゴミ箱の「愛の言葉」を手に取って読んでいる後ろ姿。 私は、スリが財布を盗む瞬間の鮮やかさと、マジシャンがハトを出す驚きは同質であると考える。本作においても、Wi-Fiという不可視の技術を、あえて「石膏像が喋る(プリントする)」という極めてアナログで即物的な視覚体験へと翻訳した。鑑賞者はゴミ箱を漁り、他人の(あるいは機械の)秘め事を持って帰るという背徳的な遊戯に巻き込まれる。これは実害のないファンタジーであり、同時に現代人のコミュニケーション不全を撃つ鋭利なトリガーとなるだろう。 【キュレーターズ・ノート】 本作は、三つの重要な美術史的・文化的文脈を内包している。 第一に、**「祝祭的エンターテインメント」**としての側面である。高尚な石膏像にサングラスをかけるような「微弱なずらし」のテクニックは、アートの難解な壁を破壊し、観客を理屈抜きの驚きへと誘引する 。 第二に、**「技術と素材の再定義」**である。枯れた技術であるサーマルプリンターや、ありふれた石膏像という素材に対し、AIという現代のスパイスを加える「水平思考」的アプローチによって、無価値な紙屑を「愛の痕跡」という新たな価値へと転換させている 。 第三に、**「視覚的レトリックとユーモア」**だ。完璧な美を誇る石膏像が、絶え間なく紙を吐き出し続けるという構造的な皮肉。この視覚的な裏切りは、鑑賞者との間に知的な対話を生み出し、現代社会の歪みを笑い飛ばす装置として機能している 。 < BACK TO PORTFOLIO

  • 『饒舌な亡霊』。古典の静寂を冒涜する、アルゴリズムによる神託

    < BACK TO PORTFOLIO 内容: 暗がりの展示室中央、ハーフでスポットライトに照らされた石膏像全景 理想は〜「静寂」「権威」「異変」 【作品データ】 作品タイトル:ハレルヤ(HALLELUJAH) 制作年:2024年 素材:石膏像、石膏柱、感熱式プリンタ、Raspberry Pi 4 (3基)、指向性スピーカー、赤外線センサ、AI(LLM)、インターネット サイズ:可変(H1600 × W500 × D500mm 程度) 内容: 石膏像の「口」から、感熱紙吐き出しアップ。 【コンセプト】 美術室の隅で沈黙を守り続けてきた「石膏像」に、AIという実体のない知性を宿らせたインタラクティブ・インスタレーション。ゲストの「囁き」をトリガーに、神格化された偶像がデジタルな言葉を物理的な「紙の吐瀉物」として出力する。権威ある静寂と、現代の過剰な情報流動が交錯する場で、鑑賞者は「神託」をゴミ箱から拾い上げるという倒錯した聖域体験を強いられる。 【ステートメント】 かつて、宗教的な「写経」を自動出力する構想があった。しかし、私はより身近で、かつ不可侵な「美術の権威」である石膏像にその役割を託すことにした。 内容: ゲストが石膏像の耳元に顔を寄せ、秘密を囁いている後ろ姿。 足元のゴミ箱から紙を拾い上げているカット。 意図: 参加型のプロセスの可視化 本作において、石膏像は単なる鑑賞対象ではない。耳に囁かれた密かな告白をAIが咀嚼し、ネットの海から拾い上げた言葉を「口」から吐き出す。声は消えるが、紙は残る。あえて利便性の高い音声合成を選ばず、不自由な感熱紙への出力を選んだのは、デジタルな対話を「物質」として定着させたかったからだ。出力された紙は足元のゴミ箱へ溜まっていく。ゲストが自らの問いに対する答えを「ゴミ」の中から探し出すとき、作品は完成する。 マジシャンとスリの違いは、そこに「実被害のないファンタジー」があるかどうかだ。私はこのバカげた現象を完璧に機能させるため、内部に3基のマイクロコンピュータを走らせ、照明・音響・AI生成の同期を徹底した。仕組みを悟らせず、あたかも石膏像に魂が宿ったかのように振る舞わせる。「精巧な嘘」をスマートに提示すること。それが私の考える、観客の記憶に深く爪痕を残すためのマジック(仕掛け)である。 【キュレーターズ・ノート】 本作は、現代アートが持つ「重苦しさ」を軽妙なエンターテインメントへと変換する祝祭的装置である。突如として100%の輝度で降り注ぐ光と「ハレルヤ」の調べは、日常の壁を破壊し、観客を強制的に非日常の儀式へと引き摺り込む。 ここで特筆すべきは、既存の石膏像と汎用技術を組み合わせ、全く異なる文脈へと転換させる水平思考的アプローチだ。最先端のAIを用いながらも、最終的な出力先が「感熱紙」という前時代の遺物である点に、技術に対する批評的ユーモアが漂う。 また、口から紙が溢れ出すという視覚的な裏切りは、権威を茶化す知的な遊戯である。ゴミ箱を漁るという行為を通じて、観客は「価値とは何か」という問いを突きつけられる。高尚な芸術への憧憬と、卑近な物質への執着。その矛盾を突く構造こそが、本作を単なるギミックに留めない「毒」を含んだ対話へと昇華させている。 内容: 石膏像の内部や柱の中に整然と配置された3枚のラズパイ、配線、サーマルプリンタ 意図: 「スマートなバカ」の裏側のバカさを < BACK TO PORTFOLIO

  • マジックの種は、嘘を守るためではなく、驚ける世界を守るためにある

    最近、YouTubeやSNSで、マジックの種明かしをする映像をよく見かける。 見たい人が、自分から探して、勉強として見るなら話は別。 マジックの世界にも 教材はある。 本もある。 映像教材もある。 レクチャーもある。 先輩から後輩へ受け継がれていく技術もある。 私自身も、そうしたものの恩恵を受けてきた。 映像で技法を学べる時代になったことは、大きな発明だ。 昔に比べて、世界中のマジックを知ることができる。 海外の演技にも触れられる。 技法の細かいニュアンスも、映像で確認できる。 これは間違いなく、学ぶ側にとって素晴らしい環境である。 けれど、いま私が強い嫌悪感を覚えているのは、 そういう「学び」としての種明かしではない。 SNS上で、見たいとも思っていない人の前に、突然流れてくる種明かし。 「実はこうなっていました」 「このマジックの仕組みはこれです」 「誰でもできます」 そんな言葉とともに、マジックの秘密が、 ちょっとした雑学や小ネタのように消費されていく。 それを見るたびに、私はとても嫌な気持ちになる。 最初は、自分でもその理由をうまく言葉にできなかった。 ただ、嫌だ。不快だ。腹が立つ。そんな感情が先に立った。 けれど、考えていくうちに、少しずつ分かってきた。 私は、種明かし動画で誰かがお金を得ていること自体に怒っているのではない。 マジックを教えることでお金を得る人はいる。 教材を作る人もいる。 レクチャーをする人もいる。 マジック道具を売る人もいる。 プロのマジシャンも、当然マジックでお金をいただいている。 お金が動くこと自体が問題なのではない。 私が嫌なのは、マジックという文化そのものが壊されていく感じだ。 文化の内側で、育てるために共有されるものと、 文化の外側から、敬意なく剥がされ、見世物にされるものは、まったく違う。 マジックの秘密は、ただの情報ではない。 「この手品はこうなっています」 「ここに仕掛けがあります」 「こうやって隠しています」 そう言葉にしてしまえば、たしかに単なる手順や構造に見えるかもしれない。 しかし、マジックは仕組みだけで成立しているものではない。 そこには、 稽古がある。 失敗がある。 何度も鏡の前に立つ時間がある。 手の角度、 視線、 間、 呼吸、 セリフ、 立ち位置、 観客との距離感、 空気の読み方がある。 そして何より、観客に驚いてもらいたいという気持ちがある。 マジックの秘密とは、演者が偉そうに知識を独占するためのものではない。 観客が驚ける時間を守るためにある。 子どもが目を丸くする瞬間。 大人が一瞬だけ理屈を忘れる瞬間。 「え、なんで?」と笑ってしまう瞬間。 目の前の出来事を、日常の理屈だけでは処理できなくなる瞬間。 その時間を守るために、マジシャンたちは秘密を守ってきた。 だから、種を守ることは、嘘を守ることではなく、 驚ける世界を守ることである。 騙すという言葉が好きではないが、あえて、マジックは「騙す芸」。 言い方を間違えれば、嘘の芸かもしれない。 けれど、それは人を傷つけるための嘘ではない。 損をさせるための嘘でもない。 誰かを支配するための嘘でもない。 楽しむための約束だ。 演者と観客の間には、見えない「契約」がある。 「今から、少し不思議なことをします」 「分かっているけれど、分からないふりではなく、本当に驚いて楽しんでください」 「こちらも、その驚きに応えられるように全力で演じます」 マジックは、その信頼関係の上に成り立っている。 ところが、 SNSの種明かし動画は、その約束の外側から突然割り込んでくる。 観客がまだ楽しむ前に、 あるいは、楽しんだ余韻を持っている最中に、 「実はこうです」と舞台袖を照らしてしまう。 まるで、ミステリー小説の犯人を、 読む前にサムネで見せられるようなもの。 作者が何年もかけて組み立てた伏線や構成、 読者を誘導する道筋を、最後の答えだけで切り刻んでしまう。 落語や漫才で言えば、 オチだけを先にばらすようなもの。 それは笑い話として扱われることもあるけども、 演じる側からすればたまったものではない。 そこへ向かうために、言葉を選び、間を作り、客席の空気を見ながら進めている。 ゲームで言えば、発売直後に ラスボスやエンディングだけを切り抜いて見せる行為にも近い。 小説や映画と同じく、作り手が積み上げてきた体験の流れがある。 その一番大切な部分だけを抜き出して、「ほら、こういうことです」と消費する。 ただ、マジックの場合は、さらに不可逆なところがある。 歌やダンスなら、たとえ未熟な映像が出回っても、 上手な人の演技を見ればまた感動できる。 上手でない歌を聞いても、 歌という文化そのものの価値が失われるわけではない。 下手なダンスを見ても、ダンス全体が壊れるわけではない。 けれど、マジックは違う。 一度仕組みを知ってしまうと、 同じ現象を初めて見たときの驚きには、もう戻れないことがある。 たとえ上手な演者が見せても、観客の中に「知っている」が残ってしまう。 これは、マジックにとってとても大きい。 安易な種明かし映像は、演じている本人だけが恥をかくのではない。 ネタそのもの、現象そのものの価値まで傷つけてしまう。 「なんだ、そういうことか」 「意外と簡単なんだ」 「ただそれだけか」 本当は、ただそれだけではない。 その“それだけ”に見せるために、 どれだけの練習と工夫があるか。 どれだけの失敗があるか。 どれだけの先人の積み重ねがあるか。 でも、種明かし動画はそこを丁寧には伝えない。 仕組みだけを抜き出して、 「ほら、簡単でしょう」 「これが真実です」 という顔をする。 私は、この「真実を教えてあげている」という顔がとても苦手だ。 誰も頼んでねーよ。 少なくとも、驚きたい人は頼んでいない。 夢を見たい人も頼んでいない。 マジックを文化として大切にしている人も頼んでいない。 それでも、SNSでは勝手に流れてくる。 見たくない人のところにも届いてしまう。 知りたい人が自分で掘ってたどり着くのとは、まったく違う。 昔は、マジックを知りたければ、ある程度の手間が必要だった。 本を探す。 専門店に行く。 教材を買う。 先輩に聞く。 練習する。 失敗する。 それでも続ける。 その過程そのものが、一つの門だった。 もちろん、昔がすべて正しいとは思わないけども、 情報が限られていたことで、学びにくかった人もいる。 地方に住んでいて、マジックショップに通えなかった人もいる。 映像教材の発展によって、多くの人が学びやすくなったことは確かだ。 しかし、そこにはやはり「学びに行く」という意志があった。 自分から探す。 自分から入っていく。 自分で時間とお金を使う。 練習する。 そうして初めて、技術が自分のものになっていく。 一方で、SNSの種明かし動画は、学ぶ気がない人にも届く。 演じる気がない人にも届く。 観客でいたかった人にも届く。 そして、仕組みだけを知った人が、「分かった気」になってしまう。 これが、とても怖い。 マジックは、知ればできるものではない。 むしろ、知ってからが始まりだ。 技法を知る。 手順を覚える。 角度を確認する。 ミスディレクションを考える。 セリフを作る。 観客の反応を受ける。 失敗する。 修正する。 また演じる。 その繰り返しの中で、ようやく「芸」になっていく。 ところが、種明かし動画は、マジックを芸能ではなく、 単なる小ネタに格下げしてしまうことがある。 「こうやっているだけ」 「裏はこうなっているだけ」 「実はこれだけ」 この“だけ”が、とても乱暴だ。 私は、種明かしそのものがすべて悪だと言いたいわけではない。 マジシャン同士の研究。 正式な教材。 創作者本人による解説。 歴史的な技法の考察。 初心者に向けた基礎教育。 こうしたものは、文化を育てる側にある。 問題は、何のために明かすのかだ。 育てるための共有なのか。壊して注目を集めるための消費なのか。 同じ「明かす」でも、その意味はまったく違う。 畑に種を蒔くために土を掘るのか。畑を荒らして中身を見せびらかすのか。 この違いは大きい。 種明かし動画を作る人たちの中には、きっと悪気がない人もいる。 「面白いから」 「みんな知りたいと思うから」 「自分も見て覚えたから」 「再生されるから」 そんな感覚なのか。 でも、悪気がないことと、文化を傷つけていないことは別。 本人にそのつもりがなくても、 結果として、観客が驚ける未来を減らしていることがある。 マジックを作ってきた人たちの積み重ねを、雑に削っているのではないか? 先輩たちが守ってきたものを、ただのコンテンツとして消費しているのではないか? 私はそこに、強い嫌悪感を覚える。 「人のふんどしで相撲を取る」という言葉そのもの。 茶化す種明かし動画は、まさにそう見えてしまう。 自分で驚きを作ったわけではない。 自分で観客を沸かせたわけではない。 自分で手順を磨いたわけでもない。 自分でその現象を文化として育ててきたわけでもない。 でも、他人が作った秘密を剥がすことで、注目を得る。 創造するより、暴く方が簡単だ。 積み上げるより、剥がす方が早い。 舞台に立って拍手をもらうより、「へぇー」を集める方が低コストだ。 だからこそ、そこには危うさがある。 私は、そういう人のふんどし映像クリエイターにこう思う。 あなた自身のクリエイター性の空洞を、他人の秘密で埋めているんだろ? もちろん、解説や分析に価値がある分野はたくさんある。 映画の解説。音楽理論の分析。建築の構造解説。料理の再現。芸術作品の批評。 それらは文化を深めることがある。 しかしマジックの場合、解体することが、そのまま鑑賞体験の破壊につながりやすい。 だからこそ、扱いには慎重さが必要だ。 マジックの秘密は、単なる裏技ではない。観客の驚きを守るための構造だ。 そこを無視して、ただ「真実」としてばらまくことは、 知識の共有ではなく、鑑賞体験の破壊になってしまうことがある。 マジックの秘密は、誰かを害するために隠されているものではない。 むしろ、楽しみを成立させるために隠されている。 マジックは、観客と演者の間にある「楽しむための契約」。 その契約を、外側から一方的に壊してしまうことに、私は違和感を覚える。 そして、何より辛いのは、これを食い止めることが難しいということ。 マジックを生み出すクリエイターがいる。 長い時間をかけて、現象を作り、手順を作り、演技を作る人たちがいる。 その一方で、承認欲求のために、それを消費してしまう人たちがいる。 驚きを作るのではなく、驚きの仕組みを剥がすことで注目を得る人間がいる。 見たい人がいるから出す。再生されるから作る。バズるから続ける。 それだけで片づけていい話ではない。 文化には、守られてきた理由がある。 マジックの世界の先輩たちは、ただ秘密主義だったわけではない。 偉そうに閉じた世界を作りたかっただけでもない。 秘密を守ることで、観客の驚きを守ってきた。 観客が初めて見る楽しみを残してきた。 次の世代の演者が、その不思議を演じられる余地を残してきた。 秘密は、過去の演者のためだけにあるのではない。 未来の観客のためにもある。 そのことを忘れてはいけないのでは? もちろん、時代は変わった。 情報は止められない。 スマートフォンひとつで、誰もが発信者になれる時代。 「見せないでほしい」と言っても、すべてを止めることはできない。 だからこそ、せめて言葉にしておきたい。 マジックの種明かしを無差別に流すことは、単なる知識の共有ではない。 それは、誰かがこれから驚くはずだった時間を奪う行為。 誰かが大切に育ててきた芸を、小ネタとして消費する行為。 先人たちが守ってきた文化の作法を、敬意なく踏み越える行為。 知りたい人が、 自分で学びに行くこと。 正式な教材を通して、練習し、身につけること。 演じるために、責任を持って知ること。 それと、SNSで誰にでも流れてくる形で秘密をばらまくことは、まったく違う。 マジックの種は、隠しているから価値があるのではない。 その先に、観客の驚きがあるから価値がある。 その秘密が守られることで、 誰かが笑い、 驚き、 不思議な時間を楽しめるから価値がある。 私は、マジックを単なるトリックの集合だとは思っていない。 マジックは、人が驚くという、とても繊細な感情を扱う芸能。 理屈と感情、嘘と現実の境目に立つ芸。 見えているものと、見えていないものの間に生まれる芸。 だからこそ、秘密の扱いには敬意が必要だ。 もし、どうしても知りたいなら、自分で学びに行けばいい。本を読めばいい。 教材を買えばいい。練習すればいい。先輩に教わればいい。 自分の手を動かして、失敗して、時間をかけて、その技術の重みを知ればいい。 でも、見たくない人にまで流す必要はない。 驚きたい人の前で、わざわざ夢の裏側をめくる必要はない。 マジックの秘密は、誰かを見下すための知識ではない。 誰かの夢を壊すための道具でもない。 それは、観客に驚きを届けるために、静かに守られてきたもの。 私は、その文化が好き。 その不思議な契約が好き。 目の前で起きたことに、子どもも大人も一瞬だけ同じ顔になる、あの時間が好き。 だから、茶化した種明かし動画を見ると悔しい。 自分が長くその世界にいたから。 そこからたくさんの恩恵を受けてきたから。 先輩たちが守ってきたものを知っているから。 そして、これからも誰かに驚いてほしいと思っているから。 マジックの種は、嘘を守るためにあるのではない。 人を騙し続けるためにあるのでもない。 驚ける世界を守るためにある。 私は、そう思っているよ。

  • youtube 更新

    サウンドスーツ関連の新しいイメージ映像をアップしました。 https://youtu.be/pckpSJokQs8 いまこれだけインバウンドさんたちが旅行へ来てるからこそ、楽しんでもらいたい。 海外の方も、国内のパフォーマーも。 言葉はいらない。 ノンバーバルで楽しんでもらえる。 それが、サウンドスーツ。 カタコトだっていいじゃない。 ジブリッシュでもいいじゃない。 そこに笑いが生まれれば。 サウンドスーツの新しい動きが始まります。

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